読書日記③ 若き数学者のアメリカ

若き数学者のアメリカ 藤原正彦

 瑞々しい感覚が非常に感動的な文章でした。
 異国の地アメリカにて祖国日本を思う気持ちから郷愁の念にかられる気持ちと、
 「アメリカ対私」という構図に置き換えて孤軍奮闘する姿が印象的でした。私自身アメリカで単身赴任をしていたので、アメリカで戦ってやるぞという気持ちは非常に強かったのでここはかなり共感できるところでした。

《夕日の見える日はあまりなかったけれど、
 そんな日は必ず日本のことを思い郷愁の念にかられた。
 一月、二月、には、夕陽はほぼ真西に沈む。
 少ししか開かない窓を思い切り押し開いて顔を半分ほど出して見ると、
 太陽はアパートの北壁に沿って赤く沈んでいった。
 ミシガンの日没は、ちょうど、日本の日の出と時間的に一致していた。
 小窓にもたれかかり、夕陽の沈むのを見ながら、
 何故に自分はこんな所に幽閉され苦しんでいるのだろうかと思うと、
 激しい孤独感と望郷の念で胸が張り裂けそうだった。》P101

 著者はアメリカでの生活の中で重度の孤独感、疎外感、劣等感に苦しむ。
 赤く沈んでいく夕陽を見ながら、
 「何故こんなに苦しんでいるのだろう」と著者は自問自答する。
 アメリカに素直に溶け込めない、阻害感から抜け出せない、
 「性に合わない」の一言ですましてしまえば簡単なのだが、
 その満足の行く答えを探すために葛藤します。
 苦しくて仕方ないのに、原因が分からないことへの葛藤が伝わってきます。英語ができても英語の雑談はかなり難しい部分があります。ほとんど早口だし、多くが略されるからです。雑談こそ信頼関係の基本だというのは非常に説得力がありました。

《しばらくたったある日、私は「アメリカには涙がない」ということに思い至った。
 モウハーヴィ砂漠にも、潮の青い水面にも、壮大なグランドキャニオンにも、
 どこにも涙がなかった。土壌に涙がにじんでいなかった。それに反して日本には……。
 思わず、これだと飛び上がった。これですべてを説明できる、と小躍りした。
 私は日本で美しいものを見ても、
 それが単に絵のように美しかったから感動していたわけではなかったらしかった。
 その美しさには常に、
 昔からの数え切れない人々の涙が実際にあるいは詩歌などを通して心情的に滲んでいた。
 (中略)
 人々の涙。慈悲の涙。感謝の涙。裏切られた者の涙。失敗の涙。成功の涙。貧苦の涙。子を失った母の涙……。
 私は、これらすべての涙を風景の中に、足元の土壌に、辺りを包む光と空気の中に、
 瞬間的に感知し、感動していたに違いなかった。》P107

長い歴史の中に裏打ちされた数々の人々の涙、
そのような歴史の中に裏打ちされた涙がアメリカには無いことに著者は愕然とする。
しかし、それに代わる涙を著者は発見します。アメリカは大体においてどこに行っても同じ景色でそこが日本と違う部分です。

《「この海の向こうに何があるか知ってるかい?」
 「この海の向うに?」
 (中略)
 と、長いまつげを二、三度瞬いて私を見つめると、
 「horizon(水平線)」
 とだけ言った。私は意表を衝かれてうろたえた。何と美しい言葉だ。感動を抑え切れずに、
 「horizon,horizon」
 と、うめくようにつぶやいた。
 そうだ、この海の向こうにはイギリスもスペインもヨーロッパ大陸もないのだ。
 それは単に、人間の知識であり常識でしかない。
 この青く果てしない大海原の向うにあるものはhorizonでしかない。それだけだ。》P147
 
《私はセキを切ったような感情の奔流に戸惑いながらも、その奔流の中で、
 埋もれていた"愛"がふつふつと蘇るのをしっかりと感じ取っていた。
 アメリカにだって、どこにだって、涙の堆積はなくとも、
 新鮮で美しい涙は確かに存在している。こう考えた時、初めてアメリカが美しいものとして心に映った。
 そして、上陸以来初めてこの国を好きになった。と言うより、一瞬のうちに恋をしてしまったようだった。》P148

「horizon(水平線)」に著者は感動を抑えきれなくなる。
「horizon」という言葉には著者が追い求めていた問題の答えが秘められていました。
確かにアメリカには人々の涙に裏打ちされた歴史の重みはなくとも、
大自然と言う名の、純粋な涙は存在しているのだと著者は気づききました。
horizon(水平線)という、歴史の重みはないかもしれない、
でも確かに長い間ずっとそこに存在した大自然の持つ涙は瑞々しい感動を覚えました。

アメリカという国に「涙」がないことから苛まれる孤独感との葛藤、
そして歴史に裏打ちされた涙は泣くとも、大自然の持つ涙に気づいた時の感動、
瑞々しい感覚が感動を呼び起こす文章でした。

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